作成日時:2019年08月21日 06時28分43秒
更新日時:2019年08月31日 07時03分09秒
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先月18日に発生した京都アニメーション放火事件に関してマスコミ各社がこのような申し入れを京都府警に対して行いました。
確かに報道の義務として事件の詳細を公衆に伝え残していくというものがあるのは理解していますし、いちファンとして顔さえも分からないけれど名前は知っている、成果物を見た事のあるひとの安否が気になるのも事実であります。
しかしながら、実名の公表や本来の事件とは逸脱した個人の出自に関して、マスコミが報道する必要性を感じません。
さらに昨今のマスコミの態度を見ている限りでは、このような要望をできるほど立派な立場ではないと考えます。
特にインターネットが発達し、このように個人でも個人が直接意見を発信できる時代に、遺族の意向等で実名公表を控えている者に対してこのような要望をして無理矢理話を聞き出そうとする必要性は全く感じません。
犠牲になった方々の思いや生き様を遺すという行為は社会的に必要な行為ではありますが、前述の通り高度に情報技術が発達した昨今では、それを個人が個人の意思で可能な世の中であります。
ならば最大限に尊重されるのは存命・遺書などで被害者の意思がはっきりと残っているのであれば被害者の、そうでなければ遺族や関係者の意思が尊重されるべきかと思います。
当然この要望で公表に踏み切るのも遺族や被害者の意思であれば止める事は出来ないでしょうが、すでに事件から一ヶ月も経過し、前回の公表で監督等の主要人物の氏名は公表されたという事を考えると、このような公表を迫る要請は慎むべきだと思います。恥を知りなさい。
なお、これは被害者や遺族関係者だけではなく加害者やその関係者に関しても同様であります。
人の人権を傷つけ生きる権利を奪ったものに対してであっても、プライバシーを保護される権利はありますし、第三者であるマスコミがその人権を踏みにじって良いものではありません。日本は法治国家でありますから、もし加害者の人権を奪って良いものが居るとするなら、司法で許されたもののみであります。法治国家でなくても「仇」を打つのは遺族や関係者、もしくはそれに託されたものであるべきだと考えています。
読者の皆様へ:
本来このブログの要旨に沿わない投稿でお目を汚してしまい申し訳ありません。
しかしながら、いちファンとしてどうしても伝えたいものでしたから、こうして記事にしましたことをお許しください。